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日本の国歌「君が代」 陸軍や日教組が作った「国歌候補」があった?動画付きで紹介!

time 2015/08/21

日本の国歌「君が代」 陸軍や日教組が作った「国歌候補」があった?動画付きで紹介!

 1999年に国旗国歌法によって「日の丸」が国旗、「君が代」が国歌と定められました。もちろん、それ以前から長く日本の国旗国歌として用いられてきた「日の丸」「君が代」ですが、それまで正式な国旗国歌と規定するものがありませんでした。公式に1999年から国旗国歌となりました。

 そんな「君が代」の裏話として、次の記事が紹介されていました。

 辻田真佐憲著の「あなたの知らない「君が代」」
 第4回 陸軍省や日教組は「君が代」以外の国歌候補曲を作っていた

かつては「君が代」以外の歌が国歌候補として作られていたことがありました。「君が代」ははじめから揺るぎない国歌ではなかったのです。そこで今回は、「君が代」以外の国歌候補5曲をご紹介します。

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「君が代」はいつから国歌として歌われていたのか?

 君が代の歌詞は「古今和歌集」の「賀の歌」という詠み人知らずの一首です。古今和歌集が編纂されたのは10世紀ですから、1000年以上前のこと。君が代は世界最古の歌詞をもつ国歌とされています。

 最初に君が代が演奏されたのは明治維新直後の明治2年のこと。イギリスの軍楽長フェントンが儀礼上日本国歌を演奏する必要があり問い合わせたところ、日本には国歌というものがありませんでした。そこで「賀の歌」を国歌の替わりに伝えました。当然、曲はありませんでした。そこでフェントンは琵琶歌「蓬莱山」を編曲して演奏しました。これが最初ですが、このまま正式な国歌になったわけでなく、明治9年には正式に廃止となりました。

 明治13年に海軍が宮内省に「君が代」の作曲を依頼します。そこで宮内省の式部寮雅楽課の楽師が数種作曲し、
海軍の楽曲改訂委員が選考・編曲して完成しました。海軍が主導するのは最も諸外国との関わりが深く、儀礼的に国歌の必要性に迫られていたからです。海軍は「君が代」を国歌として演奏し、諸外国にも国歌として紹介します。儀礼上相手国の国歌を演奏する必要もありますので当然の措置でした。それを受けた諸外国は「君が代」を日本の国歌として演奏しました。

 ところが文部省はこれを認めませんでした。独自の国歌制定を模索しつつ、やがて追認するのは明治26年になってからです。それも正式に「国歌」としたわけではありませんでした。これが1999年まで続く「君が代」は日本の正式な国歌ではない!という話につながります。

 1999年に国旗国歌法が制定され「君が代」は日本の正式な国歌となりました。しかし、「君が代」が日本の軍国主義の象徴とされたため批判反対が巻き起こり、学校での国歌起立斉唱問題と絡んで大変な騒ぎになりました。日教組が徹底的に反対したためです。ともあれ、「君が代」は晴れて日本の正式な国歌となりました。

国歌候補の5曲はどんな曲?

 ここからは「あなたの知らない「君が代」」の記事に沿って進めます。

①宮内省の「御国歌」

1877年に持ち上がった「御国歌」の構想です。日本の国柄、天皇の威光、明治維新の成果などを読み込んだ歌詞を選定し、それに作曲して国歌にすることが計画されていたのです。もっとも、歌詞の選定が難航したようで、途中で挫折してしまいました。そのため、歌詞も楽譜も残っていません。

 1877年は明治10年です。初代「君が代」が歌詞と曲にずれがあったり、西洋風であることから歌いずらいとされ、正式に廃止された次の年です。このとき海軍軍楽隊隊長が宮内省に君が代の改訂を上申しています。それを受けて取り組まれたのでしょう。しかし、現存せずとは残念です。

②陸軍省の「扶桑」

現行の「君が代」は、海軍省を中心に制作されました。これに対し、陸軍省でも別の国歌候補曲が作られました。1883年の文献に見える「扶桑」という歌がそれです。

かなり難解で、まるで呪文のようではないでしょうか。どこで区切れるのか分からないような歌詞が、このあとも延々と続きます。さすがにこれでは国歌にならないと思われたのか、「扶桑」はすぐに文献上から消えてしまいました。

 日本の海軍と陸軍の仲が悪いの有名な話です。これは太平洋戦争中だけでなく明治維新後からずっとです。明治維新の立役者である薩長がそれぞれ海軍は長州、陸軍は薩摩と分かれたからだそうです。坂本龍馬の手で薩長同盟がなりましたが、それ以前も同盟以後も薩長の仲は悪いままでした。

 日本の国歌を海軍主導で定めたのが気に入らなかったのでしょう。陸軍らしく行進曲です。世界の国歌を見ても軍隊の行進曲を国歌にした国は多くあります。有名なのはフランスでしょうか。決して珍しくもありません。むしろ、「君が代」の平和的な内容の方が珍しいくらいです。

③文部省の「明治頌」

文部省はどこよりも国歌作成に真剣に取り組み、諸外国の国歌まで取り寄せて研究を行ったようです。こうして1884年に「明治頌」という試作品が完成しました。

「明治頌」は、諸外国の国歌をよく研究しただけあって、「君が代」や「扶桑」よりも西洋の国歌に近い構成になっています。ただ、あまりに長すぎることもあって、やはり国歌候補曲としては立ち消えとなりました。こうして見ると、シンプルな「君が代」の歌詞がいかに優れているのかがわかります。

 1884年は明治17年です。海軍と宮内省により「君が代」が国歌となった後も文部省はそれを認めませんでした。その間に別の国歌を模索し、作られたのが「明治頌」でした。但し、文部省はこれを「国歌案」とはせず次の案を作成するように命じました。その後はプロジェクトが中止になったようで記録も残っていません。

④日教組の「緑の山河」

日教組は「君が代」への反発から「新国歌」作成に乗り出し、その歌詞と楽譜を45万人いた組合員より募集。選考を経て、1952年に「緑の山河」を発表しました。

日教組では「緑の山河」を普及させるために様々な努力を行ったようです。ただ、教職員だけでは力不足だったのか、「君が代」に対する支持を崩すことはできませんでした。

 時代は一気に戦後へと進みます。登場するのは日教組、国旗国歌の最大の敵といってもいいでしょう。戦後直後から戦争の象徴的な歌となった「君が代」にはアレルギーを示し、それに代わる国歌を模索していたというわけです。

 しかし、今でこそ戦争や天皇に強い嫌悪を示す方々は多いですが、これは戦後教育によって育まれた部分が強く、戦後直後となれば戦争を戦った世代が中心で天皇への尊敬も代わりませんでした。そのような環境では日教組の理念は理解されなかったのでしょう。戦後教育を受けた世代が中心になって日教組は隆盛し、そしてまた次の世代になった今は衰退しています。

⑤壽屋の「われら愛す」

戦後の国歌候補曲の変わり種としては、壽屋が募集・制作した「われら愛す」という歌があります。壽屋は、現在のサントリーです。
壽屋は、1952年にサンフランシスコ講和条約発効1周年を記念して「新国民歌」を募集しました。

こちらもやはりほとんど普及しませんでした。それでも、「われら愛す」は「幻の国歌」などと呼ばれることがあります。また、今日でもこれを歌っている学校もあるそうです。

 一企業が企画した「新国民歌」の募集ですが、「新国民歌」ということはそれまでの「国民歌」では満足できないなにかがあったのでしょうか。結果的に普及しなかったということで、企画者の意図と国民意識は違うものだったのでしょう。

「君が代」のすごいところ

 こうしてみると、数々の代替案がありながら「君が代」は不動の地位を譲りませんでした。戦後の国内外からの批判があっても微動だにしなかったのですから、さぞかし日本人は「君が代」が合っているのでしょう。他国を見ても国歌を募集して制定するよりは、歴史的に歌われているものを使用するケースが多いです。

 君が代は2つの世界一があります。
 ・世界最古の歌詞
 ・世界一の短さ

 個人的にはこの「短さ」はすばらしい点だと思います。他国の国歌にはそれぞれの経緯があるでしょうが、短い中に「精神」が詰まっている、機能美のようなものを感じるからです。
 しかし、「君が代」は通常使用されるよりも実はもっと長いです。

 一番
  君が代は ちよにやちよに さざれいしの 巌となりて こけのむすまで
  うごきなく 常盤かきはに かぎりもあらじ

 二番
  君が代は 千尋の底の さざれいしの 鵜のいる磯と あらはるゝまで
  かぎりなき 御世の栄を ほぎたてまつる

 通常は一番の一行目だけです。実は続きがあり、そして2番もあります。

もしも現代に「君が代」の代替案募集があったら?

 もはや国旗国歌法にて正式に制定されたのでありえないことですが、どのような楽曲が選ばれるのでしょう。

 個人的には氣志團の「日本人」を挙げておきます。軽過ぎですかね。

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